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しほうはっぽう

頭の整理や記録のため、本や映画など

エアーズロックで感動した話

"橙(だいだい)に 錆びても燃える 神をみた!"

エアーズロックに来てます。

ここ、本当にすごい。
今まで景色でこんなに感動したことはなかった。
オーストラリアに旅行する方々、正直どの都市よりもまずウルルに来ることをオススメします。(高いけどネ)

有名なウルルももちろんだけど、何よりカタジュタ(オメガ山)がすごかった。
一歩踏み出すたびに見応えのある景色。3時間キッツイ山道を歩いても、飽きることはなし。

エアーズロックはもともと青みがかった銀色で、鉄の成分が大量に含まれているために錆びてあの輝く橙が完成しているらしい。ノートルダムの鐘を見て以降、英語の "Sanctuary"という単語がとても好きな私だが、ここはまさにSanctuaryだった。
ウルルにある滝の名所に「目を閉じて感じてください」との看板を発見。たまたま観光客が途絶えた時間、教えに従ってみる。あ〜〜気持ちいい。オーストラリアの中心にいながら、鎌倉の山登りを思い出すわたし。旅のお供がみうらじゅんの「マイ仏教」だからか。いや、確かに両者ともに、Sanctuaryを感じたのだ。

比較が難しいほどの自然の威圧感を身体に受けながら、ツアー参加者と「なんかディズニーランドにいる気分だよね」って盛り上がる。これって、とてつもない矛盾だよな・・・。
両者ともに同じ「現実逃避」でありながら、片や神をも感じる大自然、片や自然を徹底的に排除した超人工空間。
なんでかな〜〜と考えていると、答えは自然の中にあった。

力強いオレンジに答えるように、ビビッドな緑を魅せる植物たち。太陽が沈む頃の、青から黄色への息を飲むグラデーション。
TEDのこのトーク

www.ted.com

じゃないけれど、そもそも人間が美しいと思うものは自然の中にある。デザインは自然の模倣なんだ。そう考えると、究極のデザインであるディズニーランドが道中頭に浮かんだことにも納得がいく。ディズニーランドだって、全部自然の真似なのね。クレーさんがひたすら植物を模写していたことが、少し身体に落ちた。

さて、超蛇足。
この二日間、ハエよけと日よけで水玉の風呂敷的なものを頭に巻く「ひょっとこスタイル」で過ごしてる。
普段は自分の写真など微塵も撮りたくない私だが、真っ赤に燃えるオーストラリアにひょっとこ姿でいる自分が笑えて、結構写真に収めてる。

旅する時、あえて少しの「変」をしてみるのって、とってもいいかもしれない。

こうのななこ

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ひょっとこスタイルで神にピースサインするわたし

『ザ・ビートルズ~EIGHT DAYS A WEEK〜』感想

「なぜか涙がでてくる」

そんな映画であった。

thebeatles-eightdaysaweek.jp

"The Beatles"
誰もがご存知、怪物バンドである。
小さい頃、父がよく車で流してた。
「パパ、古い音楽聴いてるなぁ」とモー娘。を口ずさむ幼稚園生だった私は、自分が高校生になってyer bluesをカバーしているなどとは思いもしなかっただろう。

60年代のイギリスに突如現れ、瞬く間に世界を圧巻したビートルズ
彼らは最強のアーティストであり、同時に最強のアイドルでもあった。

このドキュメンタリー映画では、そんな彼らの「凄さ」が伝わってくる。
それはもちろん彼らの凄さではあるが、それ以上に流行の凄さだ。
涙の理由は、きっとここにある。とにかく、目の前で起こるビートルズ現象が「凄すぎる」のだ。

ライブ会場で叫びまくる女たち。叫ぶだけでは飽き足らず、泣いて暴れて気絶していく。ある一回のライブで、病院行きが200人以上にも及ぶ始末だ。

たしかに彼らはかっこいい。ちょっとギークなマッシュヘアーにソフィスティケイトなスーツ。なんて女心をくすぐるんだろう。
それにも増して、ファン同士で「推し」のメンバーを競えるあの感じ。あの時代に生きてたら、きっと私も「ポールが一番可愛くてセクシーだわ!!」なんて叫んでた。

だが、彼らはアイドルでは終わらない。
険しすぎる20代を駆け抜けた4人は、急に髭を生やして大人になる。「もう俺らはお前らのアイドルじゃないぜ!」と堂々とアピールするかのように。
キュートなボーカルグループだった彼らはアイドルから自ら脱皮し、内面から音楽が滲み出た個人の集団として生まれ変わる。
そしてその姿に、それぞれ独立した人間としての格好良さを感じるのだ。

エンドロールの演出は、格好が良すぎてとっても憎い。

あの時代から50年経った今でも、わたしは彼らを聞いている。
アイドル像としてのビートルズではなく、純粋に彼らの音楽を。

ああ、Help!を聞かずにはいられないよ!

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(わたしはこのアルバムのカバーがとっても好き。)

こうの

わかったつもり 〜読解力がつかない本当の原因〜

 

わかったつもり?読解力がつかない本当の原因? (光文社新書)

わかったつもり?読解力がつかない本当の原因? (光文社新書)

 

「本を読む」という行為において、考えられる方向には2種類あるのではないか。

「中」に向けてひたすら掘っていく探検型と、「外」に向けて奔放に飛び回る飛躍型である。未知の内容に対して、文章を論理的に解釈して中を探っていくのが探検型なのに対し、飛躍型とは、「順序や段階をふまずに、急にとびはなれたところに移ること*1」、つまり、論理を飛び越えて妄想が四方八方に飛んでいくのを楽しんでしまうことである。(この読書の定義自体すべて筆者の妄想です。)

この勝手な定義付けからすると、この本は探検型読書をするうえで重要な心構えを、これでもか!と具体的に教えてくれている。どう具体的かというと、この本でとりあげられる例の多くが、小学校の国語の教科書からの引用なのだ。

これはどういうことか?

つまり、小学生レベルの文章にも、わたしたちが「わかったつもり」になって探検していない部分があるということだ。

「わかった」状態は、ひとつの安定状態です。ある意味、「わからない部分が見つからない」という状態だといってもいいかも知れません。したがって、「わかった」から「よりわかった」へ到る作業の必要性を感じない状態でもあるのです。(kindle版 no.367)

 と筆者はいう。この「わかったつもり」の状態を壊し、よりよく読むためにはどうしたら良いのか。 

まず、「わからない状態」とはどういう状態だろう。本書の言葉を借りれば、「わからない」とは、「部分間の関連がついていない」状態である。例えば、以下の例を見てみよう。

布が破れたので、干し草の山が重要であった。(kindle版 no.299)

一読して、まずわからない。なぜわからないかというと、「布が破れた」という部分と「干草の山が重要」という部分の関連が見出せないからだ。

ここに、「パラシュート」と示唆されるとどうだろう。おそらく「パラシュート」と「布」が関連して、「あ、パラシュートの布が破れたんだな」→「そろそろ落下するな」→「干草がクッションになるんだな」と予想が立てられるだろう。これが「わかった」状態である。

この際、無意識にわたしたちは「パラシュートがどんなものか」という知識を使っている。これがスキーマ*2である。

あることがらに関する、私たちの中に既に存在しているひとまとまりの知識を、心理学、とくに認知心理学では「スキーマ」と呼びます。(kindle版 no.428)

だが、このスキーマ文脈がなければ発動しない。「布が破れたので干草の山が重要」という文章にたいして、「パラシュートが空を飛んでいる」という背景(=文脈)がわかって、初めてパラシュートに関する知識(=スキーマ)が使えるのである。

つまり、わたしたちは常に、「これはなんの話か」という文脈を使ってそれに関連するスキーマを活性化させ、それによって文章を読んでいる。

では、なぜ人は簡単に「わかったつもり」に陥ってしまうのだろうか。これには、文脈が関係している。人は文章を読む過程で、「自分なりの文脈」を作り上げながら読んでいるからだ。自分なりの文脈を使って読むということは、無意識に細部を簡略化したり、都合の悪い部分は読み飛ばしたり、適当に書き換えながら読んでいるということである。

文章をよりよく読むためには、この部分に目を向ける必要がある。能動的に細部に目を向け、矛盾を自ら発見し、理解を再構築していく。理解を再構築する上で、新たな知識や、文章中に書いていない部分の仮定・想像が必要になってくる。そしてこの仮定・想像は他部分との整合性が保たれていれば限りなく自由なのである。

このような制約条件(文章の解釈は無数に存在し得るが、他の部分との整合性がとれていなければならないという条件*3)のもとで、想像を逞しうして、部分間の緊密性を高める想像・仮定を構築しては壊し、また構築していく、これが「よりよく読む」という過程の内実でなければならないというのが、本節の結論です。(kindle版 no.1892)

こういった「わかったつもり」を壊すための具体的な方法も、本書には詳しく書かれています。
最後にわたしの意見を述べておくと、特に気にしておきたいのは、「無関連」の部分だなぁ〜と。

細部に目を向け、そこに「矛盾」や「疑問」が出てきたとき、そこに気づくのは簡単だろう。関連を見出せるまで考え、調べれば良い。だが、無意識に「無関連」のまま処理してしまっている文章のいかに多い事やら。そこに気づくためには、例えば本書でいうと図解して比較してみるとか、ともかく能動的な姿勢が必要になってくる。

ここでちょっとばかり、探検ではない飛躍に移ってみよう。
この本、「読書」のための本なんだけれど、かなりいろんな分野への汎用性を帯びている。

この「わかったつもり」と能動的に戦う姿勢は、映画の分析や、演出する際の戯曲の分析の基礎にもなるだろうし、何より「物事を関連づけていく」姿勢は学びそのものである。

実はこのブログをはじめたのもこの本からの影響(なんでやねん)なので、こういう興味の飛び火もある意味読書の一部だろう。

というわけで、本じゃなくてもいいじゃない。
次の更新では、この本のやり方を通して本ではないものの分析をしてみようと思う。

それにしても読書のまとめ・・・むずかしい!

 

こうの

*1:ひやく【飛躍】の意味 - goo国語辞書

*2:スキーマについて、学びについて、オススメの本です。 

学びとは何か?〈探究人〉になるために (岩波新書)

学びとは何か?〈探究人〉になるために (岩波新書)

 

 

*3:括弧部分は本文からの引用ではなく、このブログでの補足です

Love Is a Losing Game/Amy Winehouse 和訳

音楽

大好きなエイミーワインハウスのLove Is a Losing Gameを和訳してみました。


(アルバムとは違うヴァージョンです。どのヴァージョンも魅力的ですね。)

とんでもない曲です。耳をすますと感情に引きずり込まれてしまいます。Back to Black自体とんでもない凄アルバムですが、特にこのLove Is a Losing Gameから流れるTears Dry On Their Ownのつなぎに、どうしても絶望を感じずに入られません。通して聴くたび、胸がきゅっとなるのです。

彼女に少しでも興味のある方、ぜひドキュメンタリー映画を覗いてみてください。もう純粋に音楽は聞けなくなってしまいますが。。。

amy-movie.jp

 

"Love Is a Losing Game/Amy Winehouse"

For you I was the flame
Love is a losing game
Five story fire as you came
Love is losing game

あなたに夢中だったわ
わたしの負けは決まっていたのに
あなたが来るだけでどこまでも燃え上がって
いつも愛したほうが負けるのね

One I wished, I never played
Oh, what a mess we made
And now the final frame
Love is a losing game

出会わなければよかったなんて
ああ、ひどい思い出ばっかりよ
でももうこれで終わり
愛したほうが負けなんだもの 

Played out by the band
Love is a losing hand
More than I could stand
Love is a losing hand

バンドが歌い尽くしてきたでしょ
恋には打つ手がないって
もう耐えられたいわ
愛した時点で負けなんて

Self-professed profound
Till the chips were down
Know you're a gambling man
Love is a losing hand

深い女を装ってきたけど
もう手元には何も残ってない
賭博好きのあなたには
いつもわたしが負けるのね 

Though I battled blind
Love is a fate resigned
Memories mar my mind
Love is a fate resigned

盲目で勝ち目のない恋だったけど
あなたを愛する運命だったのよ
二人の思い出がわたしを蝕むわ
もう受け入れるしかないとしても

Over futile odds
And laughed at by the gods
And now the final frame
Love is a losing game

勝ち目なんか全くなくて
神様からも見放されていたわ
でもそれももう終わり
愛したわたしの負けなのね

フルハウスについて

映画・ドラマ

断捨離のたびに捨てられていくノートたち。

いつかの振り返りのため、ノートに代わりブログを開いてみた。

 

さて、

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デデン。

昨年、20年ぶりの続編「フラーハウス」がNetflixで登場したことで話題のフルハウス

どこかのサイトでは、”ある世代には、「フルハウス」の名前を聞くだけできゅんとしてしまう人も多いのでは〜!”と形容されていた。わたくしこうの、若干22歳ながら、もうこの画像だけできゅんとしてしまう。

 

まず、パパ三人がかっこいい。

綺麗好きで背が高くイケメンのダニー、

行き過ぎたお笑い芸人で心優しいジョーイ、

憎めないモテ男のミュージシャンジェシー

三人ともに、「結婚してくれ〜〜〜!」と叫びたくなるほど素敵な人間だ。

 

このドラマのすごいところは、まるで自分も家族の一員かのようにタナー家に没入してしまうところにある。このイケメン三人と、心の中で暮らしてしまえるのだ。

これには、子供たち三人の存在が欠かせない。

 

演技のうまさで心を掴んでくるしっかり者のDJ、

安定感のある盛り上げ係、キュートなステファニー、

そしてなにより、ドラマの進行と同時に圧倒的成長を見せる天使ミシェル。

 

この三人が精神的にも身体的にも成長をしていく過程を、約200話という壮大なスケールを通して、視聴者は彼らと一緒に経験していく。愛らしい子供たちの人生のターニングポイントを一緒に目撃していく視聴者は、いつの間にか彼らを保護者の目線で見てしまっている。そう、心はもう家族なのである。

 

「家族という存在に対して抱きたい感情」という点において、ある意味理想である(と私は考える)タナー家。

麻薬のような「あたたかみ」が手放せなくなりそうで、私は今、1日に見る量を制限している。フルハウス恐ろしい子・・・。

 

見ていて興味深いのは、これが日本でいうバブル期の作品だということ。作品中に日本の社名など時々登場するたび、「ああ、この頃って本当に日本が世界に注目されていたんだなぁ」と悲しくなる。

今、海外のニュースサイトでJapanの文字を見ること、ほとんどないよなぁ。良い意味か悪い意味かはここでは考えないとして、ほとんどがChinaかKoreaである。

 

フルハウスを懐疑的に見れば、「家族主義のアメリカが作った、登場人物が全員善人すぎる現実離れした作品」と言えるかもしれない。

でもちょっと待て、それでいいじゃないか。

こんなに丁寧に人生の転機を思い出させてくれる作品、他に出会ったことない。登場人物は全員善人かもしれないが、現実だって、大抵の人は善人である。その中でみんな悩んでいるのだ。

フルハウスだって、DJの女の子としての悩みはキラキラなんかしていない。むしろ今のわたしとそっくりだったりする。ジェシージョーイが夢叶わずなところも見逃せない。彼らはアメリカンドリームからは程遠く、むしろ「ほどほどに生きること」「今に感謝すること」の大切さを知っている。

 

まだまだ8シーズン見終わってないが、今やジョーイが大舞台に立つだけで泣いてしまう私である。

ゆっくりと彼らの成長を味わいながら、もうしばらく一緒に暮らさせてもらいます。

 

こうの